章の最終更正日 平成22年11月26日

霊的世界とは、現代の科学では証明が出来ない世界です。
個人が体験の様な形でしか、有ると確信出来ない世界です。

そうした時、体験不足の否定論者は脳内妄想だと否定されるでしょう。
為に、そうした世界が有るということは、
病気治しの様な治癒の奇跡
未だ起きていない未来の予言
そうした、二つの道でしか見えない世界を説けなかった面があります。

人は、医学で治らない難病が神霊の力で治った。
子供が出来ない夫婦に、神にお願いしたら子供を授かった。
そうした神の御蔭の力を持って、神を信じておられる人達は数多くあります。
しかし、誰でも神に願えば叶えて貰えるとは限りません。
そうすると、もう神など居ないという話になってしまいます。
叶えて貰えた人だけが神を信じる。
そこには、どうしても現世御利益のみの信仰が栄えます。

今ではほとんどの若い方は知らない宗教に大本教がありました。
今も存在しますが、最盛期からすれば1/50程度の信徒数になっているようです。
この大本教の2代教主補であった出口王仁三郎師は、
近世日本が産んだ最高の予言者として知られています。
出口師が修業時代で大本教時代の話ではありませんが、
霊媒として神霊に身を委ねての日清・日露の戦争に関わる予言では、
戦場の様子まで細かに予言して、その通りの戦いで、
戦後の後始末の賠償まで予言を的中させたとあります。

個人のことに関して占う霊能者は多数おられますが、
国家戦争の帰趨まで細かに予言を的中させたのは、
大本教の出口王仁三郎師ぐらいになります。
為に、霊能者は出口王仁三郎予言には一目も二目も置いているのです。
ただ、出口王仁三郎聖師は霊界物語をみても霊媒としての口述であり、
その点ではアメリカの眠れる予言者エドガー・ケーシーと同じなのです。

霊媒者は自分の肉体を神霊に貸すのであって、
自己の思考の中で考えているのではないのです。
こうしたことは、自分自身が霊媒者であるか、
幾多の優秀な霊媒に関わった者でないと解らない面があります。
霊媒者自身の魂が高くないと、高級霊などは降ろせません。
発狂して、精神がおかしくなってしまいます。

宗教学の中で、いくら名声がある学者でも、
霊的世界を自己で見聞していない学者の解説は事実を語りません。
そうした学者の論で、霊界否定論に走ると間違うことになります。

見聞しなければ、霊的世界は肯定出来ない

たいへん面白いのですが、
神は光で姿形が無いと主張される霊能者がおられます。
人の姿形で表れるのは蛇や狐の神だ!。
神霊は光で現れますが、姿形でも見ることは可能なのです。
自分がその光の段階まで進めば、その光の世界に同化に入り、
目が眩んで光しか見えない世界ではないと理解が出来ます。
否、自己の意識の中で霊界の太陽すら見ることも出来るでしょう。
その霊界太陽はギラギラと輝いて、熱くて熱くてと解るのです。
その段階まで進んでいない霊感で、
あまりにも安易に神や天使の名を口に出し過ぎておられるようです。

ある神職は古来からの神官の名家の出で、
自分の霊能力は通常の霊能者など比較にならないと豪語されていました。
確かに、通常の霊能者よりは優れた方だったようです。
その方は、神は光で姿形などないと私と論争になりました。
で、私を攻撃するで私は霊的に攻撃を受けてしまいました。
結果、その光の正体は某霊場の天狗さんでした。
その方は、天狗さんの光をある高い神の名で受け取っておられた。
で、神は光で姿形がないと思われたようです。

鞍馬山に大天狗さんが言われています。
この鞍馬の大天狗さんのお姿は非常に神々(こうごう)しい。
だが、そのお姿を見るではなくて、普通であれば光で見てしまうでしょう。
私も修業時代は神霊が光としか見えずに、
師匠とした方から、観音様だとか稲荷さんだと教えて貰いました。

また、霊的世界には天国も地獄も無いと言う霊能者もおられます。
そうした霊能者は、自己陶酔の中に入っておられます。
霊的社会は非常に階層が深く(多層)、
自己の能力によって、見聞できる階層が狭くなるがあります。
ある特定の階層しかアクセスが出来ず、
その世界を知る限りでは、その世界は天国でも地獄でもないのです。
それ自体は平坦な社会を意味するからです。
その世界だけを見て、天国も地獄も無いと言っている論なのです。
井の中の蛙、大海を知らず

もし、そうしたことを言われる霊能者が
出口王仁三郎師やエドガー・ケーシーほどの方であれば、
言われることも納得は出来ますが、
取るに足らない霊能力で、豪語される霊感者があまりにも多すぎです。


私は霊能者と呼ばれる部類の者ではありませんが、
霊界見聞に走ったのには、それなりの経緯があります。


私個人の霊界体験記

霊界と呼ばれる世界は科学で実存が解明出来ません。
全て、個々の人の体験記になります。
それは妄想だと言われれば、妄想でないとは反論出来ない面があります。
霊界は想いの世界と言われる様に、
自己の空想なのか妄想なのか解らない面があるからです。
しかし、個人の妄想ならば、それと同じものを他者が見るはあり得ないのです。
自分が見ているものと同じものを他者が見ているとなると、
それを妄想と片付けるのは難しくなるのです。

私が未だ小学校の一年生か二年生の頃、
夜空を見つめて、何故か泣きました。
自分には山よりも高く海よりも深い愛を与えてくれる両親があるけれども、
あの夜空の星のどこかに私の魂の親が居る。
その魂の親に逢いたいと、夜空を見つめて泣いたのです。

すると、その姿は見えないけれども、声が聞こえて来たのです。
声と言っても、インスピレーションと呼ばれる類のものですが男性の声でした。
その声は、私に言いました。

私はこの世の幕を引くにあたって、そなたをこの世に遣わした。
そなたは、人々を救いなさい。
もし、救うことをしないのであれば、そなたは私の元に帰るのではなく、
この地球と呼ばれる星で永遠に暮らすがいいであろう。

子供とは言えども、この世の幕を引くと云う言葉には驚きました。
この世が終わるなど、とても信じることが出来ない言葉です。
この世の幕を引くと言われていながら、永遠に地球で暮らせ?。
だとすれば、この世の幕が引かれても地球は残っている。

私はその声に向かって問いかけたのです。
この世の幕を引くと云われましたが、
私だって、何時病気や事故で死ぬか解りません。
私がその日まで生きている保証がどこにあるのでしょうか?。

すると、その声は答えられた。
その日が何時なのかは言えない。
ただ、そなたはその日を間違いなく見届ける。
私はそなたを最後の者として、今の世を終わらせる。
そなたは最後の日を見届ける。

私はそなたには神のチカラを与えない。
そなたに神のチカラを与えるのは最後の最後の時である。
そなたの肉を切らせて、相手の骨を絶つ。

そなた一人だけには、この神の仕組みを見せよう。
そなたはその仕組みを見て、人々に伝えなさい。
もし、そなたが教えを間違えたとするならば、
それはそなたの責任ではない。
この私の仕組みそのものが悪かったのである。

しかし、その仕組みとは何なのだろうかです?。
それに対しては、下記のごとく云われました。
私の教えは、世界のどの宗教書にも書かれていない
この国は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国である
この私の教えを知るのに何の不自由もない

この日本にその神の教えが満ちあふれている?。
日本は世界で唯一つの国?。
世界のどの宗教書にも書かれていない?。
それなのに、その神の仕組みを見て人々に伝える?。
それは、当時の私にとっては謎そのものだったのです。

だが、人の世の習い。
私も大きくなるにつれて、すっかり神のことなど忘れていました。
だが、昭和五十五年六月。
目が開いているにも関わらず真っ暗闇の中に置かれてしまい、
大地の底から響いて来るような恐ろしい声。
突然に目の前から明かりを一切奪われて、
自分の目は永遠に暗闇の中かと思ったほどです。
その神の言葉を信じないと自分の目の前に光は射さないと解って、
その神の言葉を信じてみることにしました。
信じますと言った途端、私は暗闇の中から解放されたのです。

あまりの不思議に霊能者の元を訪ねて、修業を薦められ、
ある霊能者の元で預かって貰うことになりました。
そこで私が見聞して来た事柄は、妄想で片付けられる話ではありませんでした。
科学という常識を越えていたのです。

私は不思議な体験の連続をして、
子供の頃に告げられた意味を知ることが出来ました。

この日本に満ちあふれているのは日本語
日本語の仕組みそのものに神の教えがあったのです


子供の時、私はその声の主が誰なのかと思って尋ねました。
あなた様はいったいどなたさまですか?。

すると、その声の主は答えられた。
私は私である。永遠の神である。旧約聖書の神である。
アブラハムの神であり、そなたの神でもある。

旧約聖書は私の書ではあるが、そのままに読むと意味が解らない。
旧約聖書は秘め書であることを知っておきなさい。
謎を解きなさい。
新約聖書は人の子達が為した書であって、私の書ではない。

日本神話の神話の部分は、そうした事実があったのではない。
私が神の仕組みの一端として、そうした神話を創らせたのである。
日本神話が何を告げようとしているのか?、
そこに意味を学びなさい。

私の教えは、日本の民話や昔話に入れさせた。
そなたは日本の民話や昔話を読んで、私の教えを知りなさい。
私の教えは日本のわらべ唄にも入れてある。
特にカゴメ唄、その歌詞の意味をよく知りなさい。

そなたは、ナザレのイエスの愛の教えを恐れてはいけない。
イエスの愛の教えを乗り越えて行きなさい。

私は子供でしたし、それを全面的に信じたではありませんでした。
ただ、まだ幼い子供ではありましたが
既に当時の平凡社の百科事典全7〜8巻程度のものを読み終えていたので、
かなりの知識を持っていましたので、
まったく理解出来ない内容ではなかったのです。
しかし、イエスの愛の教えを乗り越えなさいには驚きました。
愛の教え以上の教えが存在するのだろうか?


どうして自分にそうした声が聞こえて来るのだろう?。
また、神の声が聞こえたなど、
親に云ったところで信じて貰えることでもなく、
親にもそうした出来事があったなど伝えませんでした。
私の両親は特別に信仰深くもなく、普通でした。

後の話になりますが、私の伯母は霊感が強い人だったようです。
その伯母が、まだ私が幼少の時に、
この子は後光を出している。
あれは神仏の生まれ変わりだから大切にしないと行けない。
そう従姉達に言い残したと聞きます。
ただ、私が生まれた家系は霊能力が強い家系ではあったのです。
後に霊能者の方から、国常立尊様の霊的家系と聞かされました。

当時、子供であった私にとって不思議であったのは、
この世の幕を引くと、永遠にこの地球で暮らせの違いでした。
二つの意味がどうにも解らなかったのです。
その声の教えは、その後も続きました。

私はこの世の幕を引くが、新しい世を創る
その世は未来永劫に嬉し嬉しの世である。

この地球は宇宙に浮く宇宙船のようなものである。
この地球船と同型の宇宙船があり、そちらの船に移る。
そなたはこの地球号の船長として、
新しい地球船により多くの人を移しなさい。
この地球から退船を拒否する者はやむなし。

船頭多くして、船、山へ登る。
一つの船に多くの船頭が居ては、船は目的地に行かず。
地球船の船長は一人のみ。
されど、地球船には多くの持ち場ありて、多数の乗り組みの船員(神司)があり。
地球船の乗客を避難誘導するは、各持ち場の船員(神司)達の働き。
そなたは、その時には総員退船せよの命令を発し。
船員乗客の避難を見届けて、この地球を離れるべし。
船員の中には、船長の顔すら知らぬ乗組員もあるだろう。

私はそれで、新しい世が今の地球上に建設されるのではなく、
新しい地球上で建設されると知ったのです。
私が子供の頃に臨んだ声の内容が正しいのかどうかは私には解りません。
妄想だと云われたならば、証明が出来ないからです。
しかし、その声が云われた内容に従うならば、
新しい世・弥勒の世は、今の地球上ではないことになります。
今の地球とまったく同じ同型の宇宙船なのです。
人類は滅亡するのではなく、新しい世界新しい時代にと向かうなのです。

人類は新しい世に向かう為に
神は裁くでなく、捌く

その声の主は私に云われました。
永遠の神である私と永遠に一緒に在る者達。
永遠の神である私を永遠に見ることの無い者達。
私は二つの世界に永遠に別(分)ける。
それは、旧約聖書の内容に近いと言えます。

永遠の神の存在を信じるには、霊魂の存在を認める必要があります。
永遠の神の存在を信じないは、霊魂の存在を認めなくてもいいのです。

神の存在を認めない人達は、神が存在しない世を創る。
神の存在を認めている人達は、神が存在する世を創る。

この意味を知るには、輪廻転生を知らなければなりません。
人は死ねば終わりの存在ならば、別に神を説く必要などないのです。
死んでも復活するからです。

私に臨んだ声は告げられました。

人は死んで生まれ、死んで生まれてを繰り返す。
過去世のそなたと、今の世のそなたは同じそなたでは無い。
過去世のそなたの親は今の世の親ではない。
そなたの過去世の顔形や背の高さも今の世のそなたとは違う。
育つ環境も、周りの人達も皆同じではない。
されど、過去世のそなたと今の世のそなたの心(魂)は同じなり。

この世は魂の修学の場である。
人が自分の過去世を覚えていることは、魂の修行の邪魔となる。
覚えていないからと云って、前世の存在を否定してはいけない。
過去世が在って、今の世の自分が在り、未来の自分が訪れる。
過去の自分の偉業を知らずして、過去世の自分を尊敬するもある。

人の魂の命は永遠性に近い。
その魂が人の世に在るのは、ほんの僅かな時である。
魂の世界の時間からすると、修学旅行の様な時間にすぎない。
その修学を終えれば、魂の世界にと戻る。
だが、その修学先の僅かな時間に刹那心に溺れ、
自分の魂を潰したり腐らせてしまえば魂の命は終わる。

この世に生まれ出て、
魂の学びをせずに遊び呆けているならば、
それは何の為に修学の場に出たのかとなる。

人はこの世に出て、多くの魂と触れ合う。
それが縁である。
魂の世界に戻ってから逢おうとしても、
魂の世界で二度と逢えるとは限らない。
この世での出会いを、良い思い出としなければならない。
それは魂の世界は広大で、階層も深いことを意味しています。

人はこの世の僅かな時間で全てを学べない。
自分が学べなかったことは、他の人が学んでいたりする。
他人が学んだことを、自分は知らないからと否定してはいけない。
他の人が学んだ知識も自分の学びとしなければならない。

人はこの世で学ぶにあたって、この世にはいろんな物語が起きる。
人にはそれぞれに演じる役割がある。
誰もが憧れる善役もあれば、演じたくない悪役もある。
時には通行人だけの役の時もある。
が、何等かの役割はある。
善役ばかりでは、物語の舞台の筋が描けない。
この世に起きる出来事を見て、自分はどう考えるかである。

この世に起きる様々な出来事も、
映画のフイルムの中の一コマに過ぎない。
その一コマ一コマの場面に囚われてはいけない。
全ては流れて行く瞬間の場面に過ぎない。

舞台が終われば、役者も化粧を落として素顔に戻る。
この世の舞台で悪役を演じなければならなかったとしても、
性根からの悪役になってはいけない。
性根から悪になれば、次の舞台には立たせない。
見事な悪役なれば、次の舞台には主役の善役もある。
この世の舞台、見事に演じる役者が居れば、
人はこの世の舞台を通じて、多くのことを学べる。
次の舞台は裏に用意されている。

この神が監督する神の世界の大芝居。
観客は神々や人民ぞ。
神々とて、この私が演出する舞台の筋書きは知らず。
全ての筋書きを知っているのは、この私のみ。
神の世界の舞台に上がる役者にも台本は渡さない。
筋書きを知らずして舞台を演じる役者でないと、神の舞台には使えない。

全ての舞台の幕が下りた時、
神々や人民は、そういうことだったのかと知る。
その時、神々も人民もこの私の栄光を讃えるであろう。
拍手大喝采である。

そなたはどんなに辛くとも、バカになってでも、
神の舞台の役者の一員を務めなさい。
最後のフィナレーの時、そなたも神の舞台に上げてやる。
その時、誰が神の舞台を務めた役者かが解る。
役者全員でご挨拶ぞ。

そなたを社会の底辺に置く。
そなたは社会の底辺を便所虫のごとく這ってでも生きなさい。
その社会の底辺で「人の心の在り方」について学びなさい。

新しい世は、今の世で下に居た者達が上に行く。
今の世で上に居た者達は下に行く。
今の世は、どれだけ下に居たかの競争となる。
誰よりも人の下座にすわれる者となりなさい。
この世の上座にすわりたい者には、その席を譲ってあげなさい。

そなたが本当は何者なのか?。
私はそれをそなたに教えない。
また、神々にも解らない様にしておく。
もしも、そなたの本当の正体が明らかになれば、
立身出世をしたい者達がそなたの周囲に集まる。
そうすれば、そなたの目も曇る。
そなたはあまりにも心根が優しく、そうした者に騙される。
社会の底辺の名も無き者として、この世を見つめなさい。
誠の者ほど、社会の底辺に居る者ぞ。

そなたにはボロ服(劣った肉体)を授けた。
人はそなたのボロ服を見て判断するだろう。
外形でしか判断が出来ぬ者は、それだけの者に過ぎず。
その代わりとして、そなたには私の心を与えよう。
そなたを見て私が解る者は幸いなり。
そなたを見て頭を下げる者があるならば、
例えその者が乞食の様な卑しい生活者であったとしても、
そなたはその者と同じだけ頭を下げなさい。
その者はそなたを見たのではない。
この私を見たのである。

海岸に風雪に晒された松の大木があるとしょう。
人はその松の枝振りや樹肌の荒々しさを誉めるであろう。
そなただけは、松の枝振りや樹肌を見て誉める者ではなく、
その松の大木の根を見る者となりなさい。
それはそなた一人だけであっても、そうした者となりなさい。
神にとって必要なのは、松の根を見られる者である。

そなたをこの国の宰相にさせれば、
そなたはこの国始まって以来の名宰相と言われるほどであろう。
されど、私は今の世にそなたを上の地位には就けない。
下に居る者達の苦しみを理解する者とする為である。
そなたは、新しい世において日本の天使長たる職に就くだろう。


まだ子供の私は自己妄想で、
こうした教えを聞いたのであろうか???

私は自己判断ではなく、幾多の霊能者の元を訪れました。
全ての霊能者の答えが一致したわけではありません。
なかには、御神霊が黙して何も答えようとされないと言われる方もあれば、
貴男はいったいどなたなのですかと逆質問する霊能者もあれば、
貴男はキリストですかと質問する霊能者もありました。
私はキリストなどではないと返答すると、
これほどの霊団が背後に在るのは、そうした存在でないとおかしい。
などと首を捻っておられた方もありました。

まったく見えないと言う方が多数でありましたけれども、
4〜5人の霊能者の答えは貴男の本守護神様は国常立尊様。
1人が妙見様、1人が天帝様と告げられた。
妙見様は天之御中主とも国常立尊とも言われています。
それを言われた霊能者達は、どなたも優れた霊能者達でした。

旧約聖書の神と名乗られたのは国常立尊様だったのか?。


朝鮮に残された予言に、
最後の審判前、「米」一字の教えが起きる。
その「米」の教えに従った者は救われるとありました。
誰が考えても、「米」一字で教えが出来るはずなどないのです。

ところが、日本語の仕組みを紐解けば、
「米」一字の型で教えが成り立ったのです。
それは、私が子供の頃に臨んだ声が語った、
【私の教えは、世界のどの宗教書にも書かれていない
この国は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国である
この私の教えを知るのに何の不自由もない】
また、
【そなたは、ナザレのイエスの愛の教えを恐れてはいけない。
イエスの愛の教えを乗り越えて行きなさい】。
イエスの愛の教えを越えた「良心」神を言われていたのです。

単に私の妄想だでは片付けようがないのです。


最近、もう一つの地球とか新星地球の存在を言う方達が、
日本のみならず、世界で出て来ています。
その地球は三次元界の地球でなく、五次元界に存在する地球の為に、
私達の目や科学では証明が出来ない星と語られています。

私が子供の頃に臨んだ声は、
【私はこの世の幕を引くが、新しい世を創る
その世は未来永劫に嬉し嬉しの世である】。

【この地球は宇宙に浮く宇宙船のようなものである。
この地球船と同型の宇宙船があり、そちらの船に移る。
そなたはこの地球号の船長として、
新しい地球船により多くの人を移しなさい】。
ただ、当時の私は子供でもあり、
その新地球が五次元界に在るなどとは知りませんでした。

私は私が子供の頃に臨んだ声が、妄想でないとしても、
それが実際に起きなければ、妄想の類だと私も思います。

しかし、「米」一字で、こうした教えが出来る摩訶不思議は、
やはり、創造神の仕組みとしか言いようがないのです。

~は〔言〕を示し申す(示申)
信仰は、人は言を仰ぎなさい
偶然の産物なのでしょうか?。

私が信頼がおける著名な霊能者に霊査を受けた時、
その方は不思議なことを私に言われました。
俗に仏の声が聞こえる者は千人に一人はありて、
神の声が聞こえる者は万人に一人はある。
されど、そうした者が万人修業をしたとしても、
本物は一人しか出ないとされる難しい世界。
ほとんどは途中で潰れます。
貴方は、その本物と呼ばれる者となる素質を持っておられる。

貴方の背後には、お不動さんやお稲荷さんや神々もおられるが、
そうした神達ではなく、神界を統一出来るだけの力を持った方が居られる。
だが、腕を組んだまま動こうとはされていない。
貴方が、これほど苦しんでいるのに黙って見ておられる。
貴方を助けようとはせず、まるで見殺しである。
為に、貴方は下位の神霊の思惑に振り回されることがある。
私には、この方の考えが解らない。
精神統一をなさい。
その方が表に出て来られたら、貴方も活躍出来るでしょう。

その後に、更に不思議なことを言われた。
もしかして、もしかしての話ですが、
貴方は人類が未だ見たこともない創造神の元に、
人類を案内することになるかも知れません。

私が神霊界修業の師とした方も、私に言われた。
この世界、単に神仏の声が聞こえた。
神仏が見えたでは通らない世界です。
修業に入っても、ほとんど途中でダメになってしまいます。
神霊の嘘に振り回されてしまいます。
そこから抜け出られる方は僅かです。

実際、私も神霊の嘘に振り回されて来ました。
以後、神霊が言われる言葉は承っておきますに留めるのみ。
何が正しいのかを判断するだけです。

私も常に騙されている一人かも知れません
ですから、自己の良心を神として、
自己の良心に反することは受け付けません

最近はスピリチュアルブームですが、
そうした人達は、そうした危険性を知っていません。
別に食べられるだけの職業を持っていればいいのですが、
霊能の世界だけで食べていて、
騙されていると気付いても、生活の為に戻れなくなってしまいます。
霊界の海千山千の存在に関われば、
人間を騙すなど易しいことなのです。

しかし、そうした存在も言葉で仕組むなどは出来ないのです。
言葉で仕組むには、数千年の時を必要として、
数千年前から今日を見通している存在でないと不可能なのです。
私はその存在は単に神霊ではなく、
創造神と呼ばれる様な存在だと感じます。

私自身、神霊世界の一部を垣間見たのでしょうが、
何の力を持たない者のコトバが通らないことを実感し続けました。
大本教神諭予告
九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を誠で紐解くお方がただ一人ある。

されど、多くの人が求めるのはコトバの仕組みで創造神を知るではなく、
今の一瞬の幸せであり、
幸せになる為の直前の予知であり、御利益でした。
それ以外の何物でもないと言うことだったようです。

ただ、私は子供の頃に告げられたことから、
こうした内容を伝えるのみです。
嘘か真実かは解らないが、神は存在するなのです。




追稿