章の最終更正日 平成22年6月24日

私達は新地球号(みろく丸)に乗り移らないと行けません

一部にアセンションが説かれています。
アセンションとは、宗教的にはキリストの昇天を意味します。
しかし、現在ではアセンションを信じる人達の中では地球の次元上昇と考えられているようです。
地球そのものが次元上昇する?。

この地球は3次元界の地球で在って、地球その物は次元上昇はしないと思えます。
高次元の地球が来て、その地球と共に神の国に渡るのがアセンションと考えられます。
では、何故にその霊的地球は今日迄語られて来なかったのでしょうか?。

これは大本教神諭、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸。
これが紐解かれない限り、その意味が理解出来なかったからでしょう。
この九つ花で展開されるのは、「ラ」の言霊です。

大本教神諭に一輪の言霊の秘密とまで書かれていますので、
理解されなかったのではないでしょうか?。

大本教神諭 明治25年旧正月(節分) 最初のお筆先
世に立替のあると言うことは、どの神柱にも判りて居れど、
どうしたら立替が出来るという事は判りて居らんぞよ。
九分九厘までは知らしてあるが、
モウ一輪の肝腎(心)の事は判りて居らんぞよ。

下級界(四次元)の霊達は立替が有ることを知っておられませんが、
上級界(五次元)の神柱達は、時期は解らねども立替が有ると言われます。
立替が有ると解っているから、自称救世主も続出するわけです。
ですから、ある程度のことまでは誰でも掴もうとすれば掴めたわけです。
立替のことを知らない霊達(四次元)は、
いくら高い神名を名乗っていても下級界の霊と思っていいでしょう。

全ては「虚空蔵(牛虎)」にあります。
牛虎(ウシトラ)で牛は元神の意味は解っても、虎の意味が解りません。
虚空の虚は、「虍(とらがしら)」に「七」とあります。
虚空蔵の「七」にあるから、「虎」として告げられたのでしょう。
寅(虎)は神の演技です。

その一輪の言霊「ラ」には、草冠に瓜瓜があるわけです。

この瓜二つの「ラ」に関しましては、神言会のHPに書かれています。

では、何故にその存在がこれまで説かれて来なかったのでしょうか?。
それは、高次元に存在していたからなのでしょう。
創造神が隠した天幕の中

創造神は非常に高い高次元にあるとされています。
為に、地球霊界に関わる神々をして解らない存在。
仮に、神々をして解る様な神であれば、
決して「隠り(隔離)」神とも呼ばれなかったでしょう。
艮(ウシトラ)で宇宙元津神(宇志採羅)は、退の隠り(隔離)神と解るはずなのです。

私達は3次元の地球界にあります。
通常の霊は4次元界にあるとされます。
この地球界に所属する神々・天使と呼ばれる存在ですら5次元界とされます。
その地球が6次元界にあれば、5次元界でもその存在が掴めたはずです。
その存在が明らかでなかったのは、7次元界に在ったと推察されます。
万物の創造に関わる力は7次元界からとされるからです。

アセンションの意味を知るには


注連縄(しめ縄)は、主(国常立尊様)を神界の表舞台から隠したものと言われます。
しめ縄の別名は「七五三」縄
七五三として閉ざしてあったわけです。

だとしても、私達は三次元様式の肉体から五次元様式の体にならない限り、
五次元界に進めないことになります。
その意味では、アセンションしなければなりません。
その為には、人は死んで(肉体は終わって)も生きていると知って置く必要があります。

では、どうやってアセンションが行われるのでしょうか?。
霊子線と呼ばれるものがあります。
霊子線と書いて「玉の子」線とか、シルバー・コードとか呼ばれてるものです。
日本では大本教霊界物語や日月神示などにも少し記述が出て来ます。
昔の宗教では、この存在は完全に知られていませんでした。
ですから、あまり古い宗教の教えを持ち出しても意味がありません。
スピリチュアル系の方でしたら、知っておられる方もあるでしょう。
見える方には、その存在は見えます。
昔の宗教は正しくて、現代に出ている理論は間違いと言うのは暴論なのです。

この霊子(たまのこ)線が切れないと、魂は肉体から離れられません。
人は死にますと、神の手により霊子線が切られて霊魂は肉体から離脱するとされます。
もしも切られなかったならば、魂は肉体が腐って骸骨になっても命を終えた場に縛られます。
逆に幽体離脱していても、線がある限り肉体に戻れます。
死んだはずの方が生き返るなどは、霊子線が切れていないのでしょう。

この霊子線の切断は神の権限になります。
こうしたことを何も知らない霊能者もおられるようです。
自分の目には見えないからと言って、過度の霊能者批判は行き過ぎです。
現代はまさに神を見失った時代と言えるでしょう。
なお、霊子線と呼ばれるものはモウ一種類あるようです。
それは肉体の「臍」とつながっていて、神の母胎に繋がるとされます。



大本教神諭に、人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらずがあります。
私達は神に成れば、五次元界住民なので問題は出て来ません。
今日まで、神に成れ神に成れと神人合一が説かれて来たのも来る時の備えです。

では、五次元にアセンションしない出来ない人の場合はどうなるのでしょうか?。
その場合は、今の三次元様式の地球に留まるのです。
これが、神は裁くではなくて捌くの別れです。

では、何故に人類救世の為にみろく丸が来るのでしょうか?。
それは、この地球の命に関わること。
私達の魂の真ん中には、魂の命の根元があります。
それと同様に地球の核も地球の命の根元なのです。
もし、地球の核たるマグマに異常があれば、
日月(暦)は正常に流れないのです。
太陽を回る軌道から、離れることになるのです。



神が何故に悔い改めよと言い続けて来られたのか?。
それは、私達が自己の魂を汚すことは、
この地球を毀すことになったからです。
人々の心の荒廃によって、地球の核も荒廃したのです。
愛の教えは尊い教えであっても、
悔い改める(良心)が無いと魂の修正が出来ないのです。

私達は地球の上で命を頂いて暮らしています。
そして、この地球も生命体として生きていると言われて来ました。
地球は、宇宙に浮かぶ船なのです。
船を運航させるには、「エンジン」室が必要になります。
この地球は、29.7859/秒の平均軌道速度で公転しています。
その速度を保てなければ、軌道を離れます。

だが、誰もそこに地球の機関室の概念が無かったようです。
エネルギーが存在しなければ、地球を動かせないのです。
そのエネルギーをコントロールする為には機関室が存在したのです。
その機関室を正常に保つ働きは地の神にありました。
しかしながら、機関室が制御不能になるならば、
地球の表面にマグマは噴き出し、
私達はこの地球と言う船から離脱しなければならないのです。
機関室がエネルギー制御不能となれば、
今の地球船は、宇宙を漂う船と化してしまうのです。

修理とは、私達は「理」を修めなければならなかったのです。
理とは、人の力では支配し動かすことのできない条理。道理。物ごとのすじ道。
もしも、人類が理を修めていれば「神」の存在も見えたはずなのです。



そうした話をすると、妄想とか空想で片付けられます。
故に、神は三千年以上前から言葉の仕組みで、
言葉で証明が出来る様に仕組まれて来たのです。
それが「弥勒・369」の仕組みなのです。
369の仕組みは、神言会で解説されています。

【大本教基本宣伝歌 如意宝珠より】
【神霊界の状態】
神霊世界の状態と現実世界の状態の相似点と相違点。
神霊世界に入る為の準備として
出口王仁三郎著

神霊界の状態は 肉体人の住居せる
世界と万事相似たり 平野、山岳、丘陵や
岩石、渓谷、水に火に 草木の片葉に至るまで
外形上より見る時は 何らの変わりしところなし
されども是らの諸々は 起源を一切霊界に
採りたる故に天人や 精霊のみの眼に入りて
肉体人の見るを得ず 形体的存在は
自然的起源を保有する 現界人のみ之を見る
顕幽区別は明らかに 神の立てたる法則なり
それゆえ現世の人々は 霊界事象を見るを得ず
精霊界に入りしとき 神の許しを蒙りて
詳しく見聞するものぞ これに反して天人や
精霊界に入りし者は また現界や自然界
事物を見ること不能なり 鎮魂帰神の妙法に
よりて人間の体を借り 憑依せし時ようやくに
現界の一部を見聞し 人に対して物語り
為し遂げられるものぞかし 如何となれば肉体人の目は
形体界の光明を 受くるに適し天人や
精霊の眼は天界の 光明を受くるに適すべく
造り為されしためぞかし しかも両者の眼目より
外面全く相似たり 霊界の性相この如く
造られたる自然界の 人の会得し能わざるは
これまたやむ得ざるべし 外感上の人々は
その肉眼の見るところ 手足の触覚視覚等に
取り入れ得らるるその外は 容易に信じ得ざるなり
現界人はこのごとき 事物に基づき思考する
ゆえに全くその思想 物質的に偏りて
霊的ならず霊界と 現実界とのその間に
如上のごとき相似あれば 人は死したる後の身も
かって生まれし故郷や 離れ来たりし世の中に
なおも住居するものなりと 誰人とて思うべし
このゆえ人は死を呼びて これよりあの世の霊界の
相似の国へ往くという

現実界を後にして 精霊界に移る時
その状態を死と称す 死して行くものは一切の
身魂に属せし悉を 霊界さして持ちて行く
物質的の形骸は 腐朽し去れば残すなり
死後の生涯に入れるとき 現実界にありし如
同じ形の身体を 保ちて何ら相違なく
打ち見るところの塵身と 霊身に何らの区別なし
されどその実 身体は すでに霊的活動し
物質的の事物より 分離し純化し清らけく
霊的事物の相接し 相見る状態は現界の
相触れ相見る如くなり 精霊界に入りし後も
凡ての人は現界に 保ちし時の肉体に
あるもののごと思い詰め 吾が身のかつて死去したる
その消息を忘るなり 精霊界に入りし後も
人は依然と現界に ありて感受せる肉的や
外的感覚保有して 見ること聞くこと言うことも
嗅ぐこと味はひ触るること 残らず現世の如くなり
精霊界に身をおくも 名位寿富の願いあり
思索して省み感動し 愛し意識し学術を
好みしものは読書もし 著述を励む身魂あり
換言すれば死というは 此より彼に移るのみ
その身に保てる一切の 事物を至る先々へ
持ち行き活躍すればなり 故に死するということは
物質的の形体の 死滅をいうに過ぎずして
自己本来の生命を 決して失うものならず
再び神の意志に由り 現世に生まれ来る時は
以前の記憶の一切は 忘却さるるものなれど
こは刑罰の一種にて 如何ともする術はなし
一度霊界に復活し またもや娑婆に生まるるは
神霊界より見る時は すべて不幸の身魂なり
人は現世に在る間に 五倫五常の道を踏み
神を敬い世を救い 神の御子たる天職を
つくしておかねば死して後 中有界に踏み迷い
あるいは根底の地獄道 種々雑多の苦しみを
受けるものぞと覚悟して 真の神を信仰し
善を行い美を尽くし 人の人たる本分を
力かぎりに務めつつ 永遠無窮の天国へ
楽しく上り進み行く 用意を怠ることなかれ
顕幽一致 生死不二 軽生重死も道ならず
重生軽死また悪し 刹那刹那に身魂を
研き清めて神界と 現実界の万物の
大経綸の神業に 尽くせよ尽くせよ惟神(かむながら)
神のまにまに述べておく
◇     ◇     ◇     ◇     ◇





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