章の最終更正日 平成22年7月11日

一人の悪党は言う。
宗教は大嘘つきだ。
宗教は悪いことをすれば地獄に堕ちると、嘘で人類を脅迫している。
もし、地獄が在れば自分は間違いなく地獄行きだろう。
だが、人は死ねば終わりで地獄など無い。
人は死ねば終わりである以上、悪業をしないと損をする。
恐いのは神じゃない。警察だ。

人は死ねば終わりならば
悪業をしなければ損をする
悪の論理としては、正しいでしょう。
死ねば終わりならば、
何も苦しい善業を積むよりも、楽しい愉快の悪業が得でしょう。
人が困惑したり悲しむのが好きな邪鬼
人は誰しも残虐性を持つ。
その残虐性を止めようとする働きは何か?。

だが、この悪党は、死後の世界など無い神など無いと、
信仰をする者達を迫害する者よりましな者だったのです。
何故ならば、彼は次のように続けた。
神は、悪党のすることを黙って見ておけ。
神は、人が助けて下さいと頼って来たら助けたらよいのだ。
この悪党は、神の存在は認めているのです。
実際に、この悪党の家族は困った時は、神社に参っているのです。
ただ、神と人は別の存在と認識していただけなのです。

この悪党は、その前世も、さらなる前世も悪業を続けて来ました。
だが、そうした前世においても神を否定することはなかったのです。
神を否定しない限り、神は次の人生も与え続けられたのです。

輪廻転生を頭から否定する人達は、
魂が何であるかの認識が欠けておられます。
人は死ねば終わり。
それは、生きる「思考」が脳に在るという錯覚から生じるのでしょう。
脳と言う肉体の細胞が産んでいるものならば、
肉体の脳を失えば、思う(想う)は考えられないでしょう。

命とは「息(い)の霊(ち)」
生きるとは、「息」ること
自分の心が在る限り、息(自心)ているのです。
思(想)うも「息」も、「心」なり
自分の心が消えない限り、人は肉体を去っても生きているのです。
心の存在は、科学機器では計れないのです。

脳は私達の肉体に命令の働きを司り
魂は愛とか良心とか精神を司る
楽しいとか苦しいとかは心の精神
精神には、神の字がつくでしょう
今日まで脳と心は働きが違うと、気付かなかったのでしょうか?。




魂が更正の為に、後世の世に甦(更正)る

人の目に「心」が見えるのだろうか?
科学で心の存在が解明出来るのか?
心は私達の目に見えないから
存在しないのか?



玉思惟は丸い玉なのです。
玉は欠点があると丸くなりません。
為に、欠点を更正させる為に出て来るのです。

私達の心(思惟)が輪廻を繰り返す

同じ親から生まれた子供でも性格が違います。
この性格とは、前世から持って来ているのです。
私達が前世を記憶しないのは、
前世を記憶しておくのが、魂の更正に役立たないからです。
しかし、魂の質として現れてしまうのです。
また更正として、更正が「カルマ」として出てしまいます。

人はこの世に生まれて来て、日本太郎となった時、
その日本太郎は今世一代です。
次の世も、日本太郎ではないのです。
ですから、肉体たる日本太郎は死ねば終わりなのです。
その肉体と、魂の論議を一緒にしてはいけないのです。

今の世を一緒懸命に努力して生きるのは正しいことであり、
来世があるから自殺するは許されないのです。
今世を逃避すれば、神から罰を受けると知っておくべきです。
輪廻転生を語ることは、現世を逃避させることではないのです。
この世を努力して生きて、より良い未来に向かわせる為なのです。

私達の魂の本体は、この世には在りません。
私達の魂の本体は神界にあるのです









私達肉体が住む世は、この世と呼ばれる「物質界」にあります。
この世は、横の意味で平等の世界を意味します。
また、水(瑞)の世界とします。
左右の働きを持ちます。

これに対して、私達の魂は「精神界」に籍を置きます。
精神界は縦の意味で序列がある世界を意味します。
また、火(厳)の世界とします。
上下の働きを持ちます。

死後の世界に天国・地獄論が起きるのは縦社会だからです。
平等の概念は、この世のみとなるのです。

神を「カミ」と言うのは、火(か)水(み)の意味。
十字を立てないと、神(火水)とはならず。
火と水の交わりは緑の翡翠(ひすい)の示し。
また、緑で「禄」を現す。

死んだからあの世に旅立つのではなく
魂は元から精神界(霊界)に籍があるのです

肉体を失えば、この世に留まる必要が無く
なまじこの世に執着すれば、元の世界には帰れない

私達が神を見る見ないは、
この世とあの世の交わりがなければ見られないのです。

俗に未成仏霊とか浮遊霊と呼ばれる存在は、
死後もこの世のしがらみに引っ張られているのです。
霊界にありながら、自己が霊界に在るが解らなくなるのです。

神は無い、霊界は無いと言えば「十字」は組めません
神(十)を信じない者に神(十)は無い
交わりの場所は、正十字でないといけません。


明治25年(西暦1892年)に丹波の片田舎綾部で発祥した大本教は
艮(宇志採羅)金神を説きました。
この艮(宇志採羅)は、宇宙の創造神を意味します。



頭から、神は無い、霊界は無い、死後の世界は無いと主張すれば、
魂(頭のパンツのう)の意味が解らなくなります。

この大本教において、基本宣伝歌が歌われました。
三千世界の梅の花
一度に開く神の教(のり)
開いて散りて実を結ぶ

この梅の花、当然に散れば梅の実がなります。
そして、梅の実には来世の種があります。
その梅の種の中にある「仁」のことを
天神様が眠っておられると言います。

大本教の出口王仁三郎さんは、出口家に入る前、上田喜三郎といいました。
出口家に入った時、神は「鬼(き)三郎」と名乗れと言われました。
出口喜三郎さんは、鬼はあんまりだで、王仁(おに)三郎としました。

鬼は魂の意味、その鬼の中に「仁たる王」がある。

私達の魂の中にも、天神様の種がある
故に、人は神の子・神の宮

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は唯一神を説きました。
しかし、魂論は説けませんでした。
人に内在する魂論は、日本神道で一霊四魂として説かれて来たのです。

大本教で艮のみならず、「牛虎」。
出口王仁三郎さんの「王仁」。
梅の「仁」で、梅の種の中の天神さんの意味が解らなかったのでしょうか?。



人がこの世に生まれて来る目的は?
的の目に矢を射る為
これまでは、的の目の意味が解っていなかったようです
神はその為に、的場(この世)を創られた
この世には、善も悪も学びのものは全てある

単なる知識は知識にしか過ぎません。
的を射るのが知恵たる恵みです。
恵みとは、思いやり
思いの上に、十(神)が立つ
私達が神より知恵を得たのは
他の命に対しての思いやりとか、慈しみのなのです。


神は、何故に我れよしを行けないと言われたのか?。
自分のことしか考えないでは、的を射えないでしょう。

漢字はいくら分解しても
心が出来ていない者には単に知識の振り回しになり
心が出来ている者には神の智慧を授ける




私達の魂は荒魂(勇気)の働きを学び、
次に和魂(親しむとか睦み合い)の働きを学び、
次に幸魂(人や社会を愛する)の働きを学び、
次に奇魂(智覚智行)の働きによって、
自己に内在する神性とか仏性に辿り着いたわけです。
それには長い長い魂の旅が必要でした。

しかし、最初から魂の直霊(天主の分魂)の働きを学ぶならば、
遠回りの道をせずとも済んだことになります。
しかし、その道は修行無しには辿り着かなかったのです。




大本教神諭に、人には神とも成れる魂が授けてあるにも関わらずとあります。
その神とも成れる魂とは、魂の中の核たる天神様の部分です。
しかしながら、私達の魂の中に天神様からの分魂があるとしても、
それだけでは天の神の働きは出て来ません。
その働きに、十字(神)の働きを示す必要が出て来ます。
そこに「固」の働きがあるのです。

自分の魂の中に「神」を創り出す為には、
神の存在を否定しては行けないのです。
人は神によって生かされていると知らなければいけないのです。
自然の恵みは、火水(かみ)なり。
この世は平等の世であり、この世で人を外形で差別してはいけない。
和をもって尊ぶべき。

貴方を救うのは誰でも無い
貴方自身の「個」の働きにあるのです
誰かを「救世主」と崇めることではない

自己の魂たる玉(球)を制するのが球制主



追稿