この章の最終更正日 平成22年11月13日

私達は何故に生きているのか?
そうした疑問に出会った時、よく解らないと思います。
仮に魂の修業として、この世に人として出て来たとしたとしても、
魂そのものの概念がよく解らないのです。
どうして魂が発生したのか?


人が生きていると実感するのは想うから
想いが創る像から創造
宇宙創造は宇宙の意識が想像した

人は誰でも解ることがあります。
自分はこうしたい。ああしたい。
そうした想いを持つことが、生きている実感なのです。
もし、仮に自分の想いが停止したとしたならば、
ただ、肉体を養う為の機能的なものしか動作しなくなります。
食べる必要性とか肉体の痛みとかは感じても、
生きているとか死ぬことを何とも考えないでしょう。
単に本能的ものだけになってしまいます


人の肉体から仮に魂を抜いても、人の肉体は死にません。
魂を抜かれた肉体とは、思考的に動けない状態なのです。
心ここに在らずで、ボケッとしたりしているはずなのです。
魂は、時にはまったく別世界に飛んで見聞したりします。
すると、魂は意識たる「思考」だと解って来ます。
そして、魂は肉体の生死には関係が無いと解るのです。
人は死んでも、魂は別次元の世界に所属するからです。


人の死は、息を止めるで判定される

息とは自分の心

動物体に宿る自分の心(息)の働きを止めることが肉体死

人は万物の霊長と称されるのは
霊(魂)が宿る最高の動物体が人だからです
魂が人の姿に宿る時、それは神にもっとも近い時
その時に失敗をすると、次には人の姿では無く動物体等に転生もする。

霊的世界に関わっていますと、
蛇や狐や狸や牛や羊や猫や犬霊などが出て来ます。
それを単純に動物霊だと言っているようでは無知そのものなのです。
霊的世界に現れるそうしたコトバで称される神的存在を浄霊すると、
麗しい人の姿に変化したりします。
そこに秘められることは、何等かの神罰で身(姿)が変化しているのです。


私はそれを身変える(ミカエル)の働きと説明して来ました
魂の中のエンマ(円真)の裁きです
円真の部分を中心として働かせるのが、
米の字の型による「良心」神の説明です

私が出した「米」一字の型からの良心神論は、
インターネットのプログで説かれ出した良心神説とでは、
あまりにも難しすぎるの論があります。
それは、私は単に良心神を説いていないからです。
私の良心神は言葉の仕組みを創った神の存在を知る為です
解り易いからと言って、
大衆に迎合すれば「真理」が消えてしまいます

魂のもう一つの呼び名は「玉思惟」です
思惟は思考の意味なのです

【思考】
広辞苑では
          @思いめぐらすこと。考え。
          A〔哲〕(thinking)
            ア)広義には人間の知的作用の総称。思惟。
            イ)狭義には、感性や意欲の作用と区別して、概念、判断、推理の作用を言う。
              知的直観をこれに加える説もある。
          B〔心〕
            ア)考えている時の心的過程。
            イ)ある課題の解決に関与する心的操作。

思考とは「心」でもあるのです
為に、思考は脳ですると考える者は魂は脳に在ると思い
心臓の名から、魂(心)は心臓に宿ると考える者もいます
二つの論が対立しています

これは、コンピューターで考えればいいのです。
コンピューターの命令系統はCPU(脳)にあります。
しかし、ソフトが無ければコンピューターはタダの箱(肉体)です。
それを動かすのがソフトたる魂(思考)なのです。

命とは、息(い)の霊(ち)
自分の心が宿る場所は思うで、
心臓の形態は田型で心が宿る場所なのです
だとすれば、魂は心臓に宿ると気付くべきだったのです

何故、「米」の教えがあったのか?
それは心臓が「田(四室)型」であったからなのです
肉体の血(チ)の汚れを浄化させるが心臓ならば
魂の霊(チ)の汚れを浄化させるのは良い心
悪しき思考は魂を汚し
美しき思考は魂を磨く

私達の魂が死後に別の世界に行くことは、
基本ソフトを他の機器に移すことなのです。
古くなったコンピューター(肉体)は捨てていいのです。
問題は、過去から累積させてきたデーターベースとソフトなのです。
ですから、魂は肉体の死に関係せずに移植出来るのです。
過去→現在→未来
過去の自分を振り返る必要はありません。
何故ならば、現在の各自のソフト(魂)は過去の累積を含むからです。
どのようなソフトも、過去の過ちを直してバージョンをアップさせているからです。
しかし、自己の欠点を見直し訂正していかないと、
自己の魂のバージョンアップが出来ていないのです

魂の旅とは、
魂が住む世界の次元を上げることであり
輪廻転生を通して未来に向かうこと

スピリチュアルを標榜していても魂の存在に言及しない方は、
基本的に丸い思惟の玉を見たことがないのでしょう。
また、それが背中から入るとか肩から入る憑依の類ではなく、
前面から自己の胸に入る等の経験不足と考えられます。


無意識界と意識界

仏教では無意識界が説かれます。
無意識界に入れば意識が存在しなくなるので、
苦しいとか悲しいとか嬉しいとか痛い等の思いが存在しなくなります。
その時には生まれると死ぬとかもないのです。
我と呼ばれる自己が消えるからです。
為に、輪廻転生そのものから逃れることにはなります。
本当に自分を滅するのならば、無意識界しかないのです

すると、生きていると言う思いは「意識」だと解ったはずなのです。
しかしながら、
私達が目指すのは、無意識界なのでしょうか?
この世の苦しみから自殺しても、
意識が存在する限り、苦しみは消えないのです。

肉体の苦は、その肉体が死ねば終わりです。
しかし、心の苦は意識と伴に残るのです。
為に、心に苦や未練を残してはいけないのです。
そこに、相手を許しなさいの教えが存在するのです。
相手を許すことは自分の為にもなるからです。
一時の刹那心に自分を見失ってはいけないのです。
と言っても、言うは易く行うは難しなのです。
自己の体験や経験が理解させる面があるのです。


仏教では、宇宙の始めは無(ム)から有が生じたとします。
無(ム)から有が生じるは科学的には不可能論ですが、
霊界の霊的映像を見る限り、無(ム)から有を生じたのです。
その有を生じた段階は、カオスとか混沌で表現されています。

が、無(ム)から有を生じたには陰の存在があります。
それは三元八力と言えます。
日本では古来より造化三神として説かれて来ました。
また、大本教からはその三元の創造神が説かれ、
八力の教えも出されました。
もし、その八力が無ければ回転運動が起きなかったのです。
しかし、この説明はもの凄く難しいのです。
無理に理解する必要はないかと思います。
ただ、回転の「回」の字がそれを教えています。
お釈迦様の教えに、そうした難しいことは思い煩うながありますが、
人智の理解力を越えてしまっているのです。

その回転運動が生じたことにより、
始めたる女の胎が生じた
そこから宇宙のタマゴと言うべき物が生まれ出た。
その働きこそ、
母なる神 豊雲野尊と言えるのです

豊雲の雲を、空に浮く雲と思うと意味が解りません。

【三雲(みくもの)祓詞(はらいことば)】
雲と云ふ艸(くさ)有り
蜘と云ふ蟲(むし)有り
雲と云う人(ひと)有り
鳥の飛ぶも雲息
人の運びも雲息
月日を見るも雲息
雲を渡るも雲息
~の御息(みいき)と恐るれは
突く息 吹く息 流す息
三雲の祓ひと所聞食(きこしめ)せ

神の御息たる働きを雲とも云う

その宇宙のタマゴの一つ一つは有限でありながら無限なのです。
また、それは宇宙が一つではないことすら意味するのです。
そこまで来ると、もはや人智で神を語るなどは不可能です。
神は人間の考えで創られた架空の存在でもなければ
人間のなれの果てなどでもないのです

私にはその映像が絶対的に正しいかどうかは解りません。
しかし、霊的映像としては霊界にあるのです。
ただ、「始」の漢字が女の胎である不思議を知るだけです。
もしも、それが神から見せられた映像であれば、
想像神は始めから存在しているものなのです。

神の想像から創造へ

私達人類が神の分身とも言われる意味は、
私達人類は想像した物を創造することが出来ます。
その想像から創造の働きは神の根本なのです。

想像神が想像されたものは「絵」と言えます
絵そのものは、言葉で伝えられない物
また、命を宿していない物

想像神はその絵に、命を与えられた。
その命とは、想像神の息吹。
その想像神の息たる働きを龍王神と言う
萬物を創るエネルギー体。

人が創造神と違うのは
人は想像から物の創造は出来ても
創造した物に「命」そのものを授けられない
人は神と同じだと言う主張は暴論

世に言われる竜神とは、想像神の創造の息吹の働きではなくて、
蛇霊の巨大化したものを言っているのです。
創造力では無い力(命を産み出せない)の存在のみです。
そのことは、大本教霊界物語などにも説明されていることです。
しかしながら、その事実を知る人があまりにも少ないと言えます。

想像神の息吹きたる龍神とは言霊神
岡本天明氏の日月神示に言霊神とあるのは、想像神の息吹神。
また、大本教から「ス」の神などが出されましたが、
これは言霊神の存在を解らせる為でもあるのです。
また、聖書に神はコトバで世界を造られたとありますが、
言霊神たる龍神の働きのことなのですが、説明が抜けています。
流(エネルギー)神=龍神
だとは、誰も気がつかなかったのです。


私もそうなのですが、この世に生きていて、
人の力ではどうにもならないことが起きます。
そうした時に助けてくださる御神霊はありがたい存在です。
助けていただけれぱ感謝するのは当たり前です。
それを別に狐や蛇の霊だと除外する必要はないのです。
私達を日々助けておらるのは守護神と称される守(かみ)達なのです。

しかし、その存在は想像(創造)神様ではないということです。
この日本は創造神信仰ではなく、
八百万(やおよろず)の神信仰が行われています。

大切なことは、私達も八百万の神々も含めて、
創造神様の存在を忘れてしまったことなのです
万物の産みの親たる神様です
そのことに対しての反省が要るのです。
創造神様を心の主柱神として奉ることです
そこに来るのが「良心神」の教えなのです

創造神様を奉るのに、祭壇の必要はないのです
何故ならば、各自の魂の真柱神として居られるからです
で、内在神とも申し上げるのです
しかし、自分の魂を汚すとその発動が起きてこないのです

創造神様のご威光を、
全神々、全人類が主と讃えるでないといけないのです



この宇宙創造時に活動した龍体が
創造を終えて龍体から人の形になったとされる
創造に関わった神を尊・命(ミコト)と呼ぶ

神と称される存在にも、
宇宙創造に関わった尊・命たる神達(元津神)と
神が人の形になってからの後発の枝葉の神達とに別れる

日月神示に言霊神が出て来ます
それは、宇宙創造に関わったエネルギーの神達
その働きを「コトバ」と云うからです
ただ、日月神示等ではコトバを「光透波」としたのです
音を「日立」に分解すれば、
コトバの意味がもっと解り易かったでしょう
神は光なりだけだと、意味を間違えてしまいます

世に、神は光で姿形などはないという論は、
創造時を見ていない論になります。
想像から創造に走った力の神達が人の形に変化した。
高い神霊ほど光が強いと言うことは出来ても、
姿形が無いと言うと間違えることになりかねません。

私達は創造神を言う時、
その前段の想像神を考えていなかったのです
為に想像神の息(息吹)が解らなかったと言えます
想像神(宇宙意識)の「自らの心」
私はその心が何かと考えて、
言葉の仕組みから良心神に辿り着いたのです

巷には、あまりにも自分が主の御使いと称している方が多く、
この想像から創造に至る内容を公開してしまうことは、
御本人の為にはならないと今日まで封じていましたが、
もう、明らかにしてもよい頃と考えて、開示したしだいです。

神はコトバとは、
~がコトバの仕組みに仕組んで来られたことは
想像(創造)神は存在しておられないではなく
私達がその存在を知らないだけなのです
始めから在りて、終わりまで在る




一部に、地球滅亡とか人類滅亡が言われて来ました。
その為には人類の意識を変えれば良いのだと言う論理があります。
確かに、論理的には言えばその通りでしょう。

仏教では、過去・現在・未来の三世が説かれて来ました。
私達はその三世を通して生きるです。
自己だけを考えれば、
自己の意識を変えることは重要なのです
良き未来に進めるからです
しかしながら、私達は社会の中で生きています。
その社会全体が人々の集合意識であり、
社会を変革させるは、一人や二人の意識の変革では遂行出来ません。

過去の人類の意識が在り、
現在の人類の意識が在り、
現在の人類の意識で未来の世が決まる。

今の世に住む人達の誰もが思うことに、
世の中が悪くなった
便利な世になったが、逆に人の心は荒廃した
自分さえ好ければそれで好いだらけ
この状態で未来に進むと、
強い者勝ちの破滅社会となるのです
弱者は強者に食べられる餌となるでしょう

誰もが「流行」を知ります。
そして、その流行に遅れまいとする。
何の為に?
自己の見栄を追っている人ほど流行を追います。
流行は全世界に波及する。

それは、霊的には龍神と呼ばれるものが運ぶ力です。
創造神の働きたる龍神ではなくて、
世に出ている神霊や人類の意識が創り出したもの。
そうした集合意識によって世の中は創られ、
そうした意識をリードして行く神霊達が在るのです。
その代表として大本教神諭に予告されたのがユダヤの悪鬼神。

資本主義(ユダヤの悪鬼神)は、
今日までの産業革命を創り出し、便利の世とはしました。
しかし、世界に貧富の差や資本の搾取を生み出し、
人の心を荒廃させる拝金主義や物質偏重を産み出した。
人類は創造神から遊離始めた。



スピリチュアルで今の世の危険性を察知して、
意識の変容の為に努力されて来た人達は多数在ります
しかしながら、多数に無勢
社会を変革させるまでの全体意識とはなりませんでした

この世を見れば、立ち行かなくなっているのは一目瞭然。
誰が国の指導者になっても、どうにもならなくなっているでしょう。

現代では、仏教の僧侶と呼ばれる人でも、
死後の世界は無いと公言する時代です。
お経を読んでも、中味の理解が出来ていない。
魂(心)の存在が解らない為に、心臓移植手術が行われています。
刹那心に溺れて、魂を崩壊させているのが今の世と言えます。

意識は死後の世界にまで続く。
モウ社会全体の意識を変えることは出来ないとしても、
自己の意識を変革させることは出来るのです。
創造神が存在すると想う意識と
創造神は存在しないと想う意識は
百八十度違う

創造神は存在すると想うことで
各自のイワト(一八十)を開けさせる



今日までの考え方(旧来線)では、みろくの世は走れません
それは、旧来線から乗り入れる線ではないからです
まったく新しい思考の新線(新鮮)なのです
旧来の天国界に進むのではないのです
新しい天国(みろくの世)のことです

この新線乗り換えは一瞬にして行われます
大本教では三千世界に一度に開く梅の花
開いて散りて実を結ぶと説きました
今の肉体で生きて渡る世界ではないのです
魂という実が一度に渡るのです
梅の種は魂で、種の中には天神様が宿る
それは、新しい世に意識を移すのです
それが同じ意識ということは、自分なのです

本来は、西暦一九九九年と予告されていたことが
延期になっただけであり
別に中止とはなっていないのです




追稿